昭和五十七年九月七日 朝の御理解
御理解第九十節
上からしたへ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開 くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時は難しいことがあっても、辛抱して行くうちには徳が受けられる。
昨日、ある先生がここに出てまいりまして、本当に、そのう問題にもならない事を問題 にしておられる。しかも、御信者同士、お道の教師同士、本当に問題にならん事を問題にしておるというて、自分自身が、その事をまた問題にしておる事に気付いたというお届けがありました。
私共が、信心が段々わかってまいりますと、そうですね、信心があるならそげなこつは 問題じゃないのだけれどね。本当に有難いとおかげで頂けるのに、本当に一切神愛論がわかったら、それも神愛なのにそんなことを問題にしてといいながら、それを問題にしてると、それに、ま、気が付いたというのです。
本当に、私共の信心というのは限りがないですけれども、なかなかその深さに信心の、 ま、深さというか広さというかね、その深さ広さが自分の心の上にも深く広く頂けるようにならなきゃいけませんけれど、それが一辺にというわけにはまいりません。そういうところが、やはり辛抱していく間にはとか、また、上から下へ水を流すのは容易いが下から上へ流すのは難しいというような事にもあたるのじゃないでしょうか。
これも昨日、久留米の佐田さんがお届けをしておられましたが、二、三日前、久留米教 会で松影会の大会、鹿児島の行徳照真先生を講師に迎えて、ここの久留米地区関係の幹部の信者さん方がみんな集まるわけなんです。合楽からも総代さん方が、四、五人おかげ頂いたそうですが、佐田さんもやはりおかげ受けた。丁度、班別懇談の時に、もう徹頭徹尾合楽の事を悪う言いおった方が、徹頭徹尾、これからの金光教は合楽の行き方じゃなからなきゃいけんと強調しながら話された。嘘のような話ですけれども、何十年間も合楽は間違うとるという、言い続けて来た人なんです。
これは、私の信心として人からいろいろ悪口を言われるような時には、「ハア、まあだ 合楽はおかげ頂けるなあ」というようなつもりで、いわゆる問題を問題としないわけですけれども、やっぱ何十年間、その人に合楽の信心のいうなら真価をわかって貰う為には、そこで討論したり、言い合いしたりしてからではなくて、辛抱していく内にいうなら難しい下から上へ水を流すような、おかげの状態になってきておるのじゃないでしょうか。恐らくは、今まで何十年間、合楽の事やら大坪の事を、まあ結局よく言って来なかった、いうならばお詫びの印でもなかっただろうが、というふうに思いますね。
まあ、或る教会の総代をしておる方だそうですが、私は、一辺合楽におかげ頂いた。あ ちらの親先生の成り行きを大切にせよ、尊べというお話を聞いて、それを、ま、曲りなりにも実験さして実証さしてもろうとります。私は、ここの大橋小学校の校長をしとるもんですがと言う方が、佐多さんにその事を言われた、とこうね。これは、まあその方が総代をしておられる教会も、もう本当に合楽の事は、それこそみてくれのように言うておられた教会でしたがね。いうならば、そういうように段々こう分かって貰える。それを、なら私が問題を問題としない行き方。そういう行き方が、私は相手にも分かって貰える事になるのだと思います。
昨日は御理解の中に、私の孫の恵城が家内と話しておる話を致しましたですね。家のお 爺ちゃんは、結構だと、おかげ受けておる。どういう事がおかげを受けとるかというと、寝ながら足を揉んで貰いながら、テレビを見ておる、とね。ところが、昨日、朝の食事の時ですもん、私とは言わんけれども、家内と話してる。「僕は、間違うとった。」ちね。僕は、今日はお父さんからね、家のお爺ちゃん、家の親先生は朝の三時から御用されとる。それで、あちらへ退がられると、さあ、誰々、足を揉めとか何とかじゃない。それこそ繁おちゃまでも、お婆ちゃんでもね、それこそ有難いと思うて足を揉んでおられるおだという事を、お父さんから聞いたらしいです。それで、「僕は、あんな事を言って悪かった。お爺ちゃんに、お詫びせんならん」という意味の事を、私には言わずに家内に話しているんですよ。
私は、それを聞きながら、本当に打てば響くようにあるという事は、こういう事だろう かと思わせて頂いたんですけれども。そういうように私共の行き方の中には、打てば響くように合楽理念の実験実証という事は、も、打てば響くように頂けるもんでありますけれども、その合楽理念の実験実証が何十年がかりで成就するという事もあるのです。
そこで、私は思うんですけれども、合楽で信心を段々すすめてまいっておりますとね、 本当に下らないというか、問題にもならない問題として、何か雰囲気を悪くしたり、様々なゴタゴタがあったりしているのを見て、信心が分かった人が思う。まあ、あんな事を問題にして、とこう思う。といいながら、自分がそれを問題にしておる事に気が付いたと、昨日、或る先生がここでお届けをするように、もう限りない信心の稽古、また、それを自分のものに、本当にすっきりと血に肉にするという事は、やはり下から上へ水を流すように難しいね。
けれども、そこの長ければ長い程、しかし本当な事が分かり合う。今度の松影会で、佐 田さんが体験して見えられた事は、それこそ何十年がかりである。先だって、文男先生が申しておりましたが、やっぱりその方が、「秋永さん、あんたんとこの親先生は、もう稀に見る大徳者ですばい。大事にしなさらないけんですばい」という話を聞いた。これは、文男さんが話しておりました。
今迄は、それこそ間違うとると言う人がそこまで分かる為に、誰も説明したわけもどう した事でもないけれどもね、辛抱していくうちには、なら、私自身も悪口を言われれば言われるたんびに力を受けていきよる。徳を受けて、辛抱こそ身に徳を受ける修行です。徳を受けていきよるだけではない。それこそ、下から上へ水を流すように難しいことでもね、わかり合うた時には、向こうも本当のおかげであり、こちら自身も辛抱しとる間にお徳をうけて折るという事になります。
めのみぎざんに言うて聞かしてわからせるといったようなものじゃなくて、この辺のと ころに、私は信心のいよいよ深さ、そしてまた広さを感じます。 「どうぞ」